心の刷新を求めて Ch13 「地域教会での霊的形成」

超まとめ:地域教会はそこに集う人たちの「霊的形成」に全力で取り組むべきである。いろいろな段階の人がいるが、一人ひとりの内側でそれぞれの段階で霊的形成が進められていることが大事。それぞれの教会の形式や伝統、歴史や教理といった「土の器」と新約聖書の語る宝すなわち「原則と根本原理」を取り違えてはならない。すなわちイエスの「弟子」を作るのだ。弟子は当然のごとくイエスの語ったことを実践していく。

感想:「教会は多くの人々を死に向けて備えているが、生きるためには明らかに備えられていない人たちを生み出している」という

“心の刷新を求めて Ch13 「地域教会での霊的形成」”の続きを読む

ししおどしと神の時、待ち望むということ

先日、教会で聞いたメッセージがとても印象深かった。

「バビロンに70年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこのところに帰らせる。」(エレミヤ29:10)

この聖書の言葉が、ししおどしのイメージと重ね合わせて語られた。何も起こっていないように見えることがある、何の変化も起こらない、この苦悩が永遠に続くのではないかと思われることがある。しかし時間は無為に流れていくことはない。竹の筒の中に水が少しずつ流れていくように、神の時カイロスの中に一滴もこぼれ落ちることなく注がれる。そして時が満ちる時、竹の筒のバランスが変わり動き始めるように、神の約束が果たされる。それは人間の目には突然に見えるかもしれないが、しかしそれは神の計画の中で文字通り「時満ちて」起こることである。

「バビロンに70年が満ちるころ」という言葉の味わいが一層深くなった気がする。そして、ししおどしから想起される庭園の静けさや凛としたたたずまいに心が静められる。なにより、時間が無為に流れているのではないと語られたことに大きな慰めを感じた。

そんなことを考えながら今朝(本来は出勤日だったのだが仕事がなくなり一日ゆっくり出来る日になった!)、せっかくのクリスマスなのだしとナーウェンさんの「待ち望むこと」を引っ張り出してきて読んでいたら(前半部分はクリスマスの箇所がモチーフになっている)、ししおどしのイメージと重なるところがたくさんあるような気がした。余談だが、私にとってはこの本がナーウェン事始めだった。友人からナーウェンという名前と漠然と「彼の本はゼッタイ読んだほうがいい」ということは聞いていたが、そんなころ書店でばったり出会ったのがこの本だった。改めて読み返してみて、まだ汲みきれないところも多いなぁとも感じたが一方で数年前では決して見えなかったものが見えるようになったかなぁとも感じた。「神がわたしをまっていて下さる」ということがちょっとだけ深く分かるようになったかもしれない。

たぶん去年の今頃だが、原付で走っていてふと「あぁ、焦って回復することはないのだ、焦って元気なふりをする必要もないのだ、神様を待たせておけばいいのだ、待ってもらっていいのだ」と思った瞬間がある。その時の景色をよく覚えている。ちょうど中京競馬場駅のすぐ手前の名鉄の高架をくぐるところだった。寒かったけれども気持ちのよいよく晴れた朝だった。ちょうど高架をくぐろうとするあたりで何故かそう思った、神様は待っててくれる、と。そして、その瞬間、すこしだけ世界が明るくなったような気がした。文章にするとなんだか仰々しい感じだが、ほんとにちょっとした瞬間の出来事だった。そして「わたしはこうやって神に甘えることが出来るのだ」と思った。ちょうど「甘えられない」ということについて色々考えていた時期だったからだと思うけれども。「神は人間の応答を苦しみながら待つ立場にご自身を置かれた」というナーウェンのメッセージを聞きながら、そんな情景を思い出していた。

どうでもいいことだけど、ししおどしの話と言い今の高架をくぐる話と言い、どうもわたしはイメージ先行型の人間かもしれないなぁ…。