読書メモ【神のみことばによって形造られる】【「戦前」の正体】【「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史】【信仰の友への手紙】【わたしが「カルト」に?】【まにまに】

【神のみことばによって形造られる】

副題が「霊的形成における『みことば』の力」。決して読みやすい、わかりやすいという部類の本には入らない。そして著者もたぶん「わかりやすい」と評価してほしくて書いてないと思う。私はあまり読んだことがないのでほんとに印象でしかないのだけれども、中世キリスト教の霊想書ってこんな深さと不思議さなのかなって、これを読みながら思った。

とにかく噛みごたえがすごい。(あの、さっきからいろいろ書いていますが全部ほめ言葉のつもりです…。)噛んでも噛んでも噛みきれないという感覚。そして、なんだかよくわからないけれども自分の中で、そして自分の聖書の読み方が少しずつ変えられていくという感覚がある、読み進めていくにつれ。ジャングルの奥深くに、つたや茂みをかき分けながら少しずつ迷い込んでいくイメージ。

そう「迷い込む」ということがたぶんすごく大事。それは(英語的表現をするなら)自分自身を失うことだし、また方向性を失うこと。でもそのときに、足下を照らしてくれるみことばは私が思っていたのとは全く違う道を照らしてくれる。自分が「理解していた、わかっていた」と思っていたみことばは、実はあちらの方がそうやって思い上がっていた私自身を私以上に理解し、今まで私があたかも自分の人生を切り開く「道具」と思っていたみことばが、実はむしろ私の手を取って先導し、むしろ私を「道具」として主の働きを進めるために整えてくださる。上手に言葉にならないけれどもそういうことを一瞬でも体験させられた気がする。

純粋な霊的形成、すなわち「同じ姿にされる」とは、私たちの文化がもたらす負の霊的形成を大きく転換させるものです。それは、自ら物事を動かす“主体”から愛に満ちた神のご計画の“対象”へと、私たちの役割を入れ替えるのです。p32-33

テクストを自分のコントロールのもとにおこうとするのではなく、テクストによって私たちの在り方と行いをコントロールしていただきます。p176

みことばを自分の必要を満たしてくれるもの、自分が持つ何らかの問題への解決を与えてくれるものだと思いながらみことばを読むならどうなるでしょうか。私たちが差し出す症状よりずっと深い、私たちの存在レベルで神が語ってくださることばに心を閉ざすことになりかねません。みことばに自分の必要を持って行くときには、神が語ってくださることばを喜んで受け取る心づもりでいなくてはなりません。たとえそれば、自分が必要だと思っていたものにはそぐわないように感じるとしてもです。p188

最後に自分のために本書のまとめ部分をメモ。(たぶん実際にこの本を読まないと意味は通じないと思う。)

私の祈りは、神が本書を用いて、あなたを次のことへと導き入れてくださることです。
1,神がこの世界に向かって発した「言葉」として自分を認識するようになる。
2,みことばを読むとき、形成的モードを認識するようになる。……
3,聖書の図像的側面を認識するようになる。……
4,キリスト者としての人生をカイロス的存在として認識するようになる。それは単に表面だけを取り繕うようにこの世界の在り方を整えたものではなく、キリストにある在り方の深遠であたらしい状態です。……
5,関係重視モードへのみことばのアプローチを認識するようになる。
6、「在り方と行い」の関係がいかなるものかを認識するようになる。みことばを読むという霊的修練と神のみことばへの従順は、自分の在り方に変化をもたらすためにあなたが「行う」活動ではありません。むしろ、自分の在り方を神に変容していただくための方法として、あなたが神にささげる愛の従順の行為です。p221-223

【「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史】

とても良かった。今からみるとちょっと共感の難しい戦前の価値観、そしてそこから共通して今のに本社会にも確かにあるものを整理して、立体的に、でも表層的ではなくしっかりと深堀しながら説明してくれる一冊。著者の力量と努力に敬意を表したい。ネタバレにもなるが、最終章が良いまとめになっている。

戦前といっても切り口はいくらでもあるが、本書では、日本神話からアプローチすることにした。すなわち、大日本帝国を「神話に基礎づけられ、神話に活力を与えられた神話国家」と定義したうえで、戦前を五つの神話に基づく物語に批判的に整理した。その物語とは「原点回帰という罠」「特別な国という罠」「先祖より代々という罠」「世界最古という罠」「ネタがベタになるという罠」の五つである。最後の「ネタがベタになる」は、物語が物語であることを忘れられた結果生じる、物語それ自体がはらむリスクなので、メタ物語といえるかもしれない。p276-7

本書はけっこう「物語」という言葉が説明なしに出ているが、これがリオタールの「大きな物語」を前提にしてることは間違いないと思う。(ちなみに「大きな物語の終焉」はなかなか手が出せないけどいつかは読んでみたいと思っている一冊。)

もちろん戦前、そして現代日本を読み解き、今後の変な動向への「ワクチン」を打つためにも有益な一冊だけれども、キリスト者として、神の物語に生きる一人として、物語の「誤用」や「濫用」についても自戒させられるという意味でおすすめ。

以下、メモ。

神武天皇の時代は余りに古く、政治体制についての記録がほとんど残っていない。……だからこそ都合が良かった。ほとんど白紙状態ゆえに、新政府は「これが神武創業だ!」と言いながら、事実上、好き勝手に政治を行えるからだ。つまり「神武創業」は「西洋化」でも「藩閥政治」でもなんでも代入できる魔法のことばだったのである。……「本来の姿に帰れ」という掛け声には、なにかやましいものが紛れ込んでいないか、常に警戒心をもとなかければいけない。……伝統と言いながら、新しいものを押しつけてくる。このような神武天皇マジック……p27

ある種のキリスト教が言う「リバイバル」もなんか似通ってないかと勘ぐってしまう。

p75以降、教育勅語を「忠孝の四角形」で説明するのは見事。

結局、孝行も友愛も、夫婦の和も朋友の信も、たどり着くところは国体の擁護なのだ。皇室の運命を抜きにして、孝行や友愛を論じても意味がない。国体あってこその孝行であり、友愛である。改めて強調すれば、それが教育勅語の世界観だった。p82

(政治学者の)原武史は、平成年間、多くの日本人が自発的に皇室を支持するにいたったことについて「国体のミクロ化」と呼んでいる。大仰に構えなくても、個々人の心のなかに天皇がいるのだと。p117

評論家の久野収はかつて、戦前の天皇制を「顕教」と「密教」になぞらえた。天皇は表向き神聖不可侵な存在だとされて、義務教育でもそのように叩き込まれた。ところがエリートになり、帝国大学などに進むと、天皇は統治のための機関であると教えられた。つまり天皇制をめぐっては、表向きの「顕教」とエリート向きの「密教」があり、たくみに使い分けられていたというのである。……表向き神話が事実なのだとすれば、神話をもとに世界を語ってもいいのではないか。むしろそれをやらない指導者たちは、神話を中途半端につまみ食いし、ないがしろにしているのではないか――。そういう突き上げが起こってもおかしくない。久野が言うところの、「顕教」による「密教」討伐である。p215-6

キリスト教でもこの現象があるんじゃないだろうかなあ。「顕教」対「密教」の二律背反に適切な落としどころを見いだせていない気がしてしょうがない。

一朝事あらば身命を賭さねばならない軍人は、真剣に自らの職務を考えれば考えるほど、大きな国家間に思いをいたさざるをえない。自分たちは何のために戦い、何のために殉じるのかと。だがその需要に、細部にこだわる専門家はかならずしも応えられない。そのため、在野の思想家が求められやすくなる。今日でも、自衛隊の幹部学校などに右派のジャーナリストや評論家が招かれていることがしばしば問題視される。その懸念はわからなくもないが、では、代わりに誰を招くべきかもあわせて考えなければならない。p247

戦前にクーデターを起こした将校たちが比較的若く純粋な青年たちだったことを思い出す。右派を批判することは簡単だが、それが抱かれ歓迎される背景にこれまであまり想像力を働かせることがなかった。なるほど、自らの命を賭ける身になればそれは犬死にはしたくない、大きな物語に支えられる必要を痛切に感じることはよくわかる。この記述には想像力を広げるきっかけをいただいた。

八紘一宇は何となく時代の空気を表したことばである。よく聞くけれども、ぼんやりとしていて、中身を聞かれるとはっきり応えられない。にもかかわらず、錦の御旗として掲げられるとか抗いがたく、動員されてしまう――。こういうことばこそ、むしろ危険なのではないか。現在のわれわれならば、感染症対策や自粛の名の下に、いかに無駄なことが行われて、私権が不必要に制限されていたかよくわかっているはずだ。八紘一宇もそのたぐいのものだった。p253

「プロパガンダをしたい」当局と、「時局で儲けたい」企業と、「戦争の熱狂を楽しみたい」消費者という三者にとってウィン・ウィン・ウィンな利益共同体が、軍歌という空前の国民的エンターテイメントを生み出したのである。別に古くさくマニアックな話ではあるまい。現在でも、衝撃的なニュースが飛びこんできたら、便乗的なウェブ記事などがたくさん出てくる。消費者もそれを積極的に受容している。そして政府もそれにのっかって予算や法律を通そうとしたりする。独裁的な司令塔があるわけではなく、ただ空気によって何となく流されていく。この「波乗り」は日本社会でよく見られる現象だ。p284-5

【信仰の友への手紙】

実はこの本、15年ぐらい前にどこかで書評を読んだ記憶がある。当時からちょと気になっていたのだけれども長らく絶版だったのかしら、ついぞお目にかかることはなかったのだけれども、オンデマンドで再版されたみたい。表紙を見たときに「ああ、この本だった!」とすぐ気がついて購入。

2001年初版なので20年以上も前の本。当時と比べたら技術も社会も変わっている。そもそも「手紙」なんてめったに書かない時代になったかもしれない。でも、著者が焦点を当てている短視眼的な、底の浅い霊性理解や信仰理解への指摘は決して古びていない。預言者的視点を持って書かれていると思う。手紙形式で表現が若干柔らかい印象があるのでするっと読めてしまうけれども、指摘していることは本当に大切な、キリスト教の根幹を左右する問題だと思う。

近年、世間では、「霊性」(spirituality)ということば自体が、神とは無関係に、充実した生き方をするという意味で使われている。それは、悔い改めや犠牲、また十字架の道を行かれるイエスに従うことでリスクを背負い、自由を奪われるという事態を避けて通ろうとするような霊性である。イエスがはっきりとお命じになった十字架の道は、ご自身が私たちを祝福するために携えてきてくださった「豊かないのち」に至る唯一の道であるはずなのに。p6

日本語では「霊性」ということばがオカルト的な「スピリチュアル」とも混同されて、なおこと複雑な事態を生み出しているなあと思う。そして、それに対して教会が真の霊性を示すことができないという状況が長らく続いているのではないか。

教会は関心を同じくする者が自然と寄り合ってできた集まりではない。それは超自然的な集まりだ。ここで「超」というのは、君の期待を超えているという意味ではなく、君が期待するのとは「別のもの」という意味だ。p22

ばかばかしく思えることの中できよい生活を形作っていくのが聖霊のなさり方だ。p23

(「霊性」という)ことばは、神聖なものと世俗的なもの、内面と外面、宗教的に洗練された感受性と、おむつを替えたり、支払いをしたり、情熱を感じる仕事に打ち込んだりといった日常生活の必要、そういったものを区別するためにあまりに頻繁に用いられすぎているような気がする。世間一般の会話の中で「霊的」ということばがこのようなエリート主義の意味合いで使われるかぎり、ぼくはこのことばをなるべく控えるつもりでいる。p26

全く同感。

最も大切なのは、信仰生活とは君がなしていることではなく、君に対してなされていることだと知ることだ。p30

キリストのいのちは、一見とても霊的とは思えない現実の生活――普段の平凡な事柄や思いがけない出来事、そして混乱――の中から現れて、良い日も悪い日も、月並みなことも突然の大変動も、淡々と乗り越えさせてくれる。……いかにも「敬虔そうな」霊性――ブティックのような霊性と僕は考えているのだが――に対して共に抵抗し、イエスの御名において力強い祈りと揺るがない従順さとを持って日々の出来事に対処していこうではないか、おそらくこれが僕の願いなのだ。p54

神学者の仕事は、神について考えるように人々に教えることではなく、神に祈れるように――空想して勝手に作り上げたイメージの中でただ敬虔そうにひれ伏すのではなく、聖書の教えの通りイエスのうちに現れた神に対して祈れるよう、人々を助けることなのだ。p68

神に仕える働きとは有機的なもので、イエスを知り、イエスに仕える中で、その場所や人々の中からおのずと芽生えてくるものだ。誰かに負わせたり、「宣教」や「福音伝道」や「青年伝道」などの名の下に押し付けたりするものではない。p114

長いキリスト教の歴史の中で、人々はこれぞ汚点なき霊性だと思われるものを創り出そうと数々の思い切った試みを成してきた。だが、その度に、自分の退けたものより一層悪いものにたどり着いてしまう。それは古くからある自己流の霊性の求め方の一つのバリエーションに過ぎない。その種のものはたいていがエゴであって、神を求めているものはほとんどない、自己中心の霊性なのだ。今日のぼくたちもこれに感染して苦しんでいる。p120

専門家の権限に委ね従うという現代の傾向には、ことたましいの問題に関しては、あらゆる方面から抵抗して然るべきだ。何より聖書はあらゆる人々のためのものであり、教授や牧師のためだけにあるのではないのだから。p126

痛みは霊的属性ではないし、ぼくたちが神のみこころを行っていることのしるしとして悩みに見舞われるわけでもない。また、困難な人生が、イエスの十字架をぼくたちが負っている証拠になるわけでもない。これらはすべて、ぼくたちの思いを曇らせる異端的な考えてであって、このような考えは捨て去ってしまう必要がある。p132-3

【わたしが「カルト」に?】

この分量でよくこれだけの内容をカバーしたなあと思う、濃厚な一冊。キリスト者ではない人が読むこともしっかりと想定されている丁寧な編集だと感じた。でも、統一教会やエホバの証人について教理的な、あるいは概論的な知識を得ようとする人は戸惑うかもしれない。これは読み手の生き方、他者と自分への姿勢をあぶり出し向き合わせようとする本だから。私たちは決して傍観者たり得なくなる。そういう力を持つ本。

去年、統一教会の問題が再燃した際に私の周りのクリスチャンでも「あの人たちと一緒にされて誤解されるなんて困るわ」という言説を結構聞いた。それを聞いて「いや、実は私たちも内実彼らと大きく違わないのではないか」ということばをグッと飲み込んだのだが、その印象は決して間違ってないとこの本を読んでちょっと自信を持てた。炎上覚悟で言いますが、この国のほとんどのキリスト教会、特に福音派と呼ばれるところや聖霊派と呼ばれるところは多かれ少なかれ「カルト」に片足を突っ込んでいる。それは教理や信仰に問題があると言うより、日本の文化の中にそもそも「空気の支配」という種子が埋め込まれているからだと思う。

恐怖を持って人を従わせようとする支配からカルトが生まれるのです。……カルトと支配は切り離せません。「カルトとは何か」を考えることは、「支配とは何か」を考えることでもあります。そうなると、カルトは何も宗教だけに限ったことではないことがおわかりかと思います。p57

この後、実際、著者は「政治カルト」「家族カルト」そして「商業カルト」を取りあげて論じている。

カルト問題で最も懸念されるべきことは、多くの人が持っている「カルトはわたしには全然関係のないこと」という認識です。これまで述べてきたとおり、カルトは何も宗教だけに限ったことではなく、わたしたちの日常生活のあらゆる場面で起こりうる人間関係のゆがみです。繰り返しますが、誰もがカルトなるものの根を持っていて、いつその根からカルトの芽が萌え出るかはわからないのです。私たちの生活人間関係が存在している以上、自分の心の内からカルト的な傾向が顔をのぞかせる可能性は、いくらでもあると言うことを考えれば、カルトについて決して無関心ではいられないはずなのです。p69-70

個人的にはここがこの本の一番の肝だと感じた。ちなみに、本書のタイトルは「わたし」がカルトの被害者にも加害者にもなり得るという両面の意味を表しているという。

「支配されている状態」というのは実は大変気持ちいいことなのです。自分自身で選択肢、自分自身で決断し、その結果について自分自身で責任を負うことは、現代では誰もが普通にやっている当たり前の生き方のように感じられますが、実は大変なタフネス(強い精神力)を必要とする、しんどい生き方なのです。カルトによるマインド・コントロールは、表面上「自分で決めなくていい」「自分が責任を負わなくていい」という気楽さを提供してくれます。p85

大学生時代の自分の姿がよみがえる。「私は神様にすべてを委ねて歩む」「主のみこころの道を歩む」といいながら、自分にも他者にもそう告白しながら、その実は自分の人生から逃げまくって、内面世界に逃避して、キレイな「信仰的な」ことばを並べながらその実はリスクをただただ回避していた。ずっとそういうロボットでいたかったと同時に、決してそうであることはできないという予感も感じて不安定だったんだろうなと思う。

時々「間違ったカルト宗教から正しいキリスト教へ導いてあげたらいいじゃないか」と言われることもありますが、そんな単純な話ではありません。カルトから脱出するということは「これが絶対に正しい」という信念から卒業することであり、むしろ「何が正しくて何が間違っているのかわからない」という混乱に飛び込む、という意味合いが強くあります。p103

カルト問題について詳しく知らない人から、時々「なぜそんなバカなものにだまされるのか」という声が聞かれます。私はそういう言葉に接するごとに、むしろ「だからカルトの被害はなくならないのだ」と感じます。
もうちょっと弱い立場の人たちに思いをはせる社会であったなら……。
もうちょっと疲れた人に寛容な社会であったなら……。
もうちょっと他人に痛みに敏感な社会であったなら……。
カルト問題はここまでの深刻さと広がりを持たずに済んだかもしれない、と強く思わされるのです。p112

【まにまに】

西加奈子さん、数年に一回ぐらい読みます。こういう、短いのにものすごくおもしろい着眼点で書いていくエッセイってすごいなぁと思う。真似できない、まあする機会もないけど。

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