心の刷新を求めて Ch13 「地域教会での霊的形成」

超まとめ:地域教会はそこに集う人たちの「霊的形成」に全力で取り組むべきである。いろいろな段階の人がいるが、一人ひとりの内側でそれぞれの段階で霊的形成が進められていることが大事。それぞれの教会の形式や伝統、歴史や教理といった「土の器」と新約聖書の語る宝すなわち「原則と根本原理」を取り違えてはならない。すなわちイエスの「弟子」を作るのだ。弟子は当然のごとくイエスの語ったことを実践していく。

感想:「教会は多くの人々を死に向けて備えているが、生きるためには明らかに備えられていない人たちを生み出している」という

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心の刷新を求めてch12 〜光の子ども、世の光〜

超まとめ

聖書的な意味での「光のこども」とは光の基本的な性質を光そのものである方から受け継いでいる人のこと。誰かが光の子どもであるとは、その人の生活習慣や行動様式と言うよりもその人の内面、魂の深みまで回復された人であるということ。とにかく聖書に書かれていることを「行う」ことによって光の子どもになるのではない。基本的な側面のそれぞれにおいて内側から変えられることによってのみ可能。聖化とは神から与えられた聖さが維持され強められるための継続的な取扱いであるといえる。近代の本質は端的に「光の子どもたちの働きの欠如」として表される、闇が堂々と光として魅力的なものとして当然採用されるべき規範として提示される。いまこそ光の子どもである、理屈や事実ではなくて行動としてそうあるべきである。

感想いろいろ

光の子どもとなるということは「完璧」になるということではなくて「魂の回復である」と定義されることにとっても安堵感を覚えた。聖化とは私とは全く異質な他者を歯を食いしばり演ずることではなく、私の中に創られたしかし傷んでいる魂が取り扱われることの結果であって、その結果として自然と流れ出るものである。いままでなんとなく「不自然なもの」に思われていた聖化という概念がすごく自然なものでありまた合理的なものであるように感じられてきた。少なくとも「聖化」と聞いて背筋を伸ばして身構えなければ!という無意識の抵抗感みたいなものは随分取り去られたかな、と思う。

罪に立ち向かう力は懲罰への恐れではなく、現実がありのままに見えることによって罪がバカらしく見えることから生まれる。p403-4 なんとくなく実感として、このことはわかり始めてきたかなと思う。冷静に考えれば、そして聖書の現実を考えれば罪への誘惑の力はなくなりはしないまでも半減していく、というのはほんとに実感としてそう思う。カウンセリングを受けていたときに「あなたは以前はファンタジーの世界でなんとか自己像を作り上げて守ってきたけれども、いま現実に生き始めているんですね」と言うようなことを言われたことを思い出した。確かに、自分の感情の感じることそのままを言い表さないまでも意識して認識するようになった。神に対する不信や怒り、失望も現実として表現するようになった。まぁそうせざるを得ないところまで追い込まれたのだけれども、最初は自分が聖化とはまったく逆行しているように感じたし、自分は信仰も捨ててもう救われていないのだろうとも感じた。でも、結果として現実に生きるほうが遥かに楽だということがわかってきた。そして、罪が馬鹿らしい、という感覚もちょっとずつわかってきた。

「『むさぼるなかれ』という戒めに苦しむことなく、むしろ他者が良いものを持っていることを喜びます。」p409 これを読んで、二つの体験を思い出した。一つはある親しい友達との関係。自分の結婚への道のりが頓挫して苦しんでいる間に彼は結婚した。親しいからこそ悔しさや惨めさはこみ上げてきたし、あいつと俺となにが違うんや!と随分苦しんだ。(まぁそういうことを本人に言っても全然問題ない関係性があったことは本当に幸いで、実際何度かそうやって言ったこともあるけど。)でも、先日彼のうちに遊びに行って、生まれたばっかりの彼の息子をちょっと抱いて、彼の奥さんとも話して一緒にご飯食べて、自分の中に「なんで俺にはコレがないねん!」っていう苦々しさが全然湧いてこなかったことに自分でびっくりした。まるで自分のことのように嬉しいし、自分にこの幸せがあるないではなくて世の中にこんな家庭が存在しているって言うことが嬉しかった。そして、自分が素直にそう思えることが嬉しかった。もう一つ思い出したこと。それは音楽が楽しめるようになったこと。昔はプロアマ問わず上手な演奏を聞くと「あぁ、なんで俺はこんな風にでけんのやろか? なにが違うんやろか?」と無意識のうちに比較していた。純粋に音楽を聞くことを楽しむっていうことはあんまりなかったのだと思う。でも最近、「あぁ、あんな風に弾けたら気持ちええやろうなぁ、っていうかあの人俺の代わりに弾いててくれとるんや!」って思えるようになった。目の前の奏者にものすごい才能があり能力があることを自分が一緒に楽しめる感じで聞けるようになった。聖書用語で言うなら「むさぼらなくなった」というところかな?

最後のテーマ、現代社会と聖化について。学生時代によく読んだジョン・オズワルト博士の「聖きを生きる人々」という本の冒頭、初っ端の言葉は「アメリカの、そして世界中の教会の運命は、聖書にある聖の教えに教会がどう取り組むかにかかっています」というものだったなぁと思いだした。でも、ウィラード博士はもう一つ大きなことを行っている気がする。「教会のみならず、この世界の運命はキリスト者が本当に光の子として行動するかにかかっている」という論旨のように思う。聖、Holinessは個人の問題にとどまらない、教会の問題に留まらない、実にこの世界の命運を握る概念なのだ、というにわかには信じがたいようなこと。でも、確かにそうなのかもしれない。聖化と言われることはあってもなくても良いようなものではなく、私が思っているよりも遥かに大事で私だけの問題に留まらず私の人間関係、そして私の関わる社会をも変革していくもの。私は聖霊の力を見くびっているなぁと思う。

心の刷新を求めて Ch11 〜魂の刷新〜

まとまらない超まとめ:魂は自己の様々な側面を相互に結びつけ、統合し、活性化する命の根源である。魂が神につながっていなければ、人生の諸部分が統合出来ない状態となる。魂は傷つき得るし実際に傷つくこともあるが、私たちの理解を超えた可能性や関係を持ち、神の下で驚くべき回復可能性を持つ。聖書では魂は内なる水の流れのイメージで描かれていたりする、それは命を始動し、方向付け、維持する。聖書の中では魂は人間のもっとも基本的ないのちのレベルであり、元来神に根ざしたものであると語られる。魂の回復を与えるのは神のみであり、神はそのために「律法」を与えられた。律法は神との関係の中で捉えられるなら完全であり祝福であり、恵みの流れる道となる。律法とは「救い」の大切な1要素である。

感想:正直話が壮大で若干掴みどころが無いような気もして、読み込むのに時間がかかった。20%ぐらいはわかったかなぁ、というのが実感。でも、生活の中で「あぁ、わたしの魂はまだまだ全然歪んでいて傷ついていて、回復が必要なんだろうなぁ…、もしそれが本当に可能なら…。」と思わされる出来ことがいくつかあって、本当にここに書かれているようなことが実際に起こったら素敵だろうなぁと思った。なんていうとなんだかずいぶん他人事みたいな書き方だが、そもそも回復があったらいいなぁと望めるということ自体がものすごい回復ですよ、少なくとも私にとっては。「可能ならそうなればいいなぁ」なんて薄っすらとでも漠とした望みを抱けるということが。魂の傷つきを実感させられると「あぁ、わたしは結局何も変わっていないのだ、成長していないのだ、昔の愚かな私そのままなのだ」と落ち込むが、でも少なくともそれが認識できるだけでも良いのだろうなぁ。

『律法を守らなくても「救い」は信じたときに与えられている』という無立法主義の話は、あぁマクナイトさんが書いてた当たりのことなのかなぁと思った。まぁライトさんももちろん書いていたと思うのだけれども。私の勝手な理解だけれども、救いは一回的な手続きと言うよりはプロセスであって、律法はまさにそのプロセスの道標となるものだと思う。なんだかインスタントラーメンばりに「インスタント救い」が蔓延中なのでしょうか。

心の刷新を求めて ch10 “社会的側面の変容”

(超まとめ)霊的形成は個人の領域の中で完結するものではなく必然的に社会的なものである、なぜなら人間は神と他者との関わりの下に生きていくように出来ているから。愛の欠如は攻撃と敬遠としてあらわれる、そしてそれらは単なる対人関係から企業や教会、国家どうしの間にも見られるものである。実に社会問題の根本にあるのは結婚関係の問題である。社会的規則面における霊的形成の4つの要素は(1)自分自身を満たされたものと見るようになる(2)自己保身がなくなる(3)見せかけが消え真実な交わりが起こる(4)交わりの中で生み出されるものを世の中に提供していくようになる。

(感想)この章を読んで、やっぱり私個人が関係的存在としてはとっぷりと歪んでいてしっかりと「壊れている」のだなぁと改めて悲しくなった。そもそも「霊的形成や聖化とは私個人のこと」と何処かでどっぷりと思い込んでいる、その自分の姿に悲しくなった。育った家庭や教会も含めて、子供の頃はきっとこの世界から自分を守り生き抜くことに必死だったのだと思う。世界は安心できる場所ではなかった。とにかく自分で自分の身だけは守らなければ、親も先生の肝心の部分ではあてにならないのだからと。いまもたぶん意識しない内に「自己完結」の世界に入り込んでいるのだと思う。自分のことはだれにも明かすな、頼るな、自分のうちでなんとかしろ、と内なる声は常に牽制している。

「教会という、注意深く距離を保っている人間関係の中で週二時間ばかり過ごしたところで、現状打破にはほとんどなんの役にも立たない」p338 私なんかはこれ読んで、そのまま「教会」ということろを「家庭」に入れ替えても意味が通るなぁ、なんて思ってしまった。気を遣い合って本音でぶつかることはなく、傷つきを極度に恐れてただただ距離感だけが残っていく、そんな感じ。そして、その傾向が私の地の中にも脈々と流れてるんだよなぁ…orz

この章は結構な分量を「結婚」に割いているけれども、次の文章には一刀両断された。「悲しいことですが、結婚する多くの人は結婚能力を持っていないのです。ここで言う結婚とは、婚姻関係にある二人を文字通り一人の完全な人にする、絶えざる相互の祝福です。とはいえ、それが欠落しているのは当人の落ち度ではありません。この世界では知りようがなく、教えてくれる人もいないからです。これが現代の悲しみの中心に位置する、魂が灼けつくようなつらい現実です。」p340 3年前に結婚しようとした私には結婚能力なんて全くなかった、全く! じゃあいまはあるのか…? うーん? いまも無い気がするけどどうなんだろうか? だれか「結婚能力判定」とかしてくれないだろうか? なんて真面目に思ったりしてしまった。結婚ではない結婚が存在するってことだよなあ…。この章を読んで、結婚って大事だよなあという思いを新たにされながら同時に俺には無理だぜとも思った。無理、ゼッタイ。どうすりゃいいのさ! そんなこと結婚しなきゃわからないのだろうか? してもわからないのだろうか? 迷宮入り…。うーん、こんな迷宮入りする人とは結婚したくないよなぁ、普通は…orz

「何もしない」という満たし

なんにもしないということが最近出来るようになってきたと感じている。本を読むわけでもない、ものを書くわけでもない、何か生産的なことをするわけでもない、ある時は机の前で、ある時は布団の上でただただ何にもしない。「何にもしない」と文字で書くと別に何も難しいことでも特別なことでもないような気がするかもしれないが、本気になって「何もしない」ということが出来るようになってはじめて、私はこれまでの人生で「何もしない」ということが全然できていなかったのだと思うようになった。何もしないということができていないということも気がついていなかったし、それが人生に必要不可欠であるということも思い至らなかった。

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心の刷新を求めて Ch8

(超まとめ)意志は人間の霊そのものとも言えるものであり、人間の尊厳の源である(神さえもそれを無理に侵犯しようとなさらない)。私たちは自らの意志を神の意志に合わせていく時に、初めて本当の意味で自由となり、心に自らの意志を100%持つことができるのである。
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心の刷新を求めて ch7

超まとめ:自分で決めなければならないことばかりの現代において、感情は私たちの(本来は理性や洞察が占めるべき)意思決定のプロセスを乗っ取りやすい。「私の感情」こそ現代の最強の偶像となっており「私の感情こそ満たされなければならない、私の感情こそ神だ」と叫んでいる。感情に身を任せて感じるためだけに感じていくと結果は無気力、無感覚、依存となる。キリスト者の霊的形成は意図的に神の偉大さへの信仰と希望、神と隣人への愛、変わらない真理を土台とした喜び(それらは一体で別個のものではない)を選び取っていく(もちろん神の恵みの下に)。自分の正直な感情を認めて神の下へ置いていく時、そして愛、喜び、平安が感情を満たしていく時時に「私の感情は満たされなければならない」というプライドやそれに伴う破壊的感情はその行為とともに駆逐されていく。

感想:感情ということを考えていて、久しぶりに宣教師時代に使った「四つの法則」の汽車のイラストを思い出した。

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この絵が言わんとするところは本書で言わんとするところと基本的には同じだと思うのだけれども、私はこの絵を見ながら「感情は大切ではない、重要ではない、あってもなくても同じようなものだ、いや、むしろ無いほうが良いのだ」という風に解釈していた、無意識のうちに。何故そうなったかといえば、それまでも感情って言うことをほとんど認めてこなかったから。というか私に「感情の自由」がなかったのだと思う、ここらへんは生育史に起因することだと思うのだが。良い感情だけを感じなければならないと思っていた、思っていたというかもうそれが当然だと思っていた。ネガティブな感情は無視して、抑えて、強靭な意志の力を行使してたと思う、子供の頃から。「何を感じても良いんだ! それに引っ張られなければ良いだけなんだ!」というのはここ数年で掲示されたまさに「福音」だった。冗談抜きで。あと、本書でも強調点が置かれていると思うのだけれども、否定的な感情や破壊的な感情は「自分でコントロールしたり取り除いたりしないでもよい」ということ、霊的成長の過程で徐々にではあるけれども自然に剥がれ落ちていく、段々と追い出されていくということも「大いなる福音」だと思う。なんだかここらへんは科学の授業を受けているような気分だった。要するに「Aという物質にBという物質を反応させるとCができます」みたない物言いに近い感覚を受けた、そのぐらい自明なことだしreasonableなことだし、ある意味神秘的でも魔術的でもない、「そりゃ当然そうなるだろうな」と理性で納得できる感じ。

「今欲していることを欲さなくなること、今欲していないことを欲するようになること」というのはかゆいところに手が届く感じがした。どうしても「行為」に目をとらわれやすいのだけれども、「心情」というか「心の傾向」が変えられるように願うというアイディアはなかったなぁ、と正直に感心。このアイディアを持ってるだけで随分祈りが変わる気がし、意識が変わると思う。今日からでも変えることが出来るポイント。

神の偉大さに安らぐ、ということ。私はまだまだ全然神の偉大さを知らないなぁ、むしろ自分の背中で担げるぐらいの大きさの神しか思うことが出来なくて、それをまだまだ自分で背負おうとしているなぁ、そして自分が神となろうとしてるなぁということを痛感する。「偉大な神」という時、一番に頭に浮かぶイメージはその偉大さによって私を威圧し、ひれ伏させ、コントロールしようとする神のイメージである。(旧約の中で神に出会った人々のとっさの行動がみんなそんな感じだったということは私にとっての励まし、イザヤ然りモーセしかりエゼキエルしかり、新約のサウロしかり) しかしヨブを黙らせたのは神の脅しではなくて、神の偉大さが自分にとって十分であると本当にわかったからである、と。神は「とてつもなく偉大」である、と…。私の自己欺瞞、悪への傾向、自己愛性にも関わらずなおも私を導き支え守るのに十分に偉大である、と…。信仰が今試されている、試されているという言い方はよろしく無いかもしれない、うん、よくない、成長へと促されている…。

(以下、メモ)

・感情…私たちの生活を先導するもの、「まるで気を引こうと騒いで始末に負えない子ども、何を感じようとそれで良いのだ、とふんぞり返っている」
・何かが「触れている」ことはわかるがそこに何があるのか何故そこにあるのか分からない→理屈抜きの力を持つ
・私たちの社会では感情が偶像化されている。
・感情に意志の力を持って立ち向かっていくと勝ち目はない、戦っている振りが出来るだけで自己欺瞞。感情を入れ替えていく必要がある。
・真実「自分の感情はそれがどんなものであれ、満たされる必要はない(満たされてもいいし、そうでなくても構わない)」
・変化のためのVIMパターン。「今欲していることを欲さなくなること、今欲さないことを欲するようになること。」罪を犯さないようにと願うだけでなく、それに向かわせるような感情を持ちたくないと願い、その感情を避ける手立てを取る。「自由なものとしての自分の姿、VISION」→新しい自己認識の芽は「イエスの弟子」というアイデンティティ
・良くも悪くも感情が人を動かす。良きサマリヤ日との例え。哀れみの感情が彼を動かした。感情の重要性を認め、良い感情を持つように心がける、感情を統制し従える。秩序が乱れているのが問題。
・否定的な感情を知性的にしっかりと受け止め、着実に治めていく
・感覚とそれをもたらす状態は区別して考える。そして実際の状況に関して行動を選択していく。 ex. 「恋愛中」という感覚、「平和ボケ」
・感情は生活全体にさえ影響していく、生活全体を「乗っ取る」危険がある→理性的な判断を大切に。(認知行動療法:客観的状況はどうか? 私はそれをどう解釈しているか?)
・感情に身を任せ、支配権を明け渡す→「感情的に満足するためだけに感情を求める。感じるためだけに感じる」真の満足は感情先行ではない→依存
・平和の真の反対は、戦争ではなく、死んでいる状態、生気のなさ
・何故感情が現代人を支配するのか?→私たち現代人は常に自分が何をするのかを決定しなければならないから。他に基準がなければ感情を基に判断するしか無いのだ。これが現代の特徴であり、トルストイが体験した農夫達の生活にはなかった特徴。
・自制とは自分の決めたことを時に感情や気分に反して実行する能力。神と善のもとで訓練された意志のみがそれを完全に可能にする。
・感情は概念やイメージによって左右されることを覚えておこう。
・霊的変容を経た人生の中心となる感情は「愛・喜び・平安」。これは単なる感情ではなくて、それらの感情を特徴とする全人的特徴。これらは(一つの)御霊の実の異なる側面であり、互いに関連していると捉えられる。それは人間が意識的に求めたり作り出せるものではない、御霊の実だから。最後まで残る3つのもの「信仰・希望・愛」とも切り離せない。
・ローマ・ギリシャ世界では希望とは絶望の度合いを図るものだった。(そんなに期待しすぎるなよ、現実を見ろよ。絶望した人の最後の妄想。)→「いやいや、神がキリストを通して啓示してくださった現実を見るときに希望が湧くのだ。それは最終避難場所ではない、むしろ現実を直視するところから来る当然の帰結だ。」信仰とは主観的心理状態ではない、現実を知る知識だ。(カルヴァンの信仰の定義)そして、希望は練られていく。(ロマ5:1-5)
・愛とは、善への意志、即ち慈善。ただその人の益のために善を願う。(自己愛の延長としての愛は他者を単なる対象として結局のところ自分の誇大自己を愛し助長しているだけ。「私の欲求は満たされなければならない、満たされないのならそれは不当であり恥である」)
・全き愛への四段階 ①神が私たちを愛している②全てを尽くして神を愛する③神を愛する人々を愛する④愛し愛される共同体の実現
・アウグスティヌス曰く、愛の反対はプライド。逆を言えば、愛が増し加えられると「自分のしたい余裕にすべき、私の感情が満たされるべき」という確信が駆逐されていく。→感情の支配からの脱却
・喜びとは全身に広がる幸福感であり、その中心にあるのは決して失うことのない包括的な善を持っていることに対する満足と愉悦。全てが良い。喜びが満ちる=他のものが入る余地がない=弱さや失敗や心身の病に対する何よりの防御となる。神の善に思いを留めることが基盤となる。
・平安:御子にあるいのちの賜物を受け取る。自分が義人でなく、有能でもなく、自分の努力ではそうなれないことを受け入れる、自己弁護しない、自力救済を「諦める」。ただ受け取るだけの存在となる。(あぁ、これが出来なかったのだ。人からの善意は好意はプレッシャーに感じた。返さなければならない、期待に答えねばならない…。何故そう感じていたのか? 私が他者の期待や失望に敏感だったからかな? 人を失望させるのを極端に恐れた? 何故? 感情的に不安定な人が周りにいっぱいいたから?特に親?)物乞いになることこれ即ち「私は神ではない」ということに同意すること。
・ヨブが神と対面した時、彼が知ったのは神が彼にとって十分な方であるということ。彼はそれを「教義として」ではなくて本当に知った。神の偉大さは私を威圧して従わせるために示されるのではない、そうではなくて私たちが「その偉大さの上に巣を作るように」そして「その偉大さの中を飛ぶように」示されているのだ。
・神への信仰を土台として愛、喜び、平安へと積極的に入っていくなら、破壊的な感情は取り除かれます。…破壊的な感情はその行為とともに、私たちから自然に剥がれ落ちていく。段々と追い出されていく。(当然の結果。なんだか数学の照明や理科の授業でも受けてるような感覚。)
・悪い感情がなくなったかのように見かけを取り繕ってはならない、それがあることを積極的に認めてそれを十字架に(主体的に)つける。→悪い感情が勝手にひとり歩きしない、生活全体を引っ張ることもない。
・第一の課題:自分のうちの感情の現実の姿を認めること。「愛には偽りがあってはいけません」(うわー、世の中や家庭の中の愛なんて偽りの塊だよなぁー!)
・感情は重要な役割を持つが行動や人格を変えるための基盤にしてはならない、その役割は洞察や理解、真理への確信が担うべきであり、感情はそこに伴うべくして伴う。(四則の汽車の絵。あれを見て私は「感情は切り捨てるべき」と解釈していた。切り捨てるというか押し殺すというか、無化するというか。あることは認めてもいいし、感じてもいい、それに基づいて生活の舵を切らなければ。)
・神との歩みで苦しむクリスチャン、元凶は自分の「ニーズ」満たされるべきという感情に動かされてキリスト者としての歩みを始めてしまったから。(というよりも、そのように仕向けられたというかそのようにしか教えられなかった、語られなかったということだろう。彼らは被害者でもある気がする。)

心の刷新を求めて ch6

超まとめ:私たちの思考は(1)概念(観念)、(2)イメージ、(3)情報、(4)思考能力(理路整然と考える力)の4つの要因からなる。概念とは私たちの現実認知のレンズであり思考の動くOSであり、意識的に取り扱うことは困難。私たちは意識するしないとに関わらず「悪の概念体系」に支配されておりまさに「暗闇の独裁」の下にいる。イメージは概念体系と感覚的・感情的につながっている。イメージはそれを通して人を操作できるほど有効なものであり、「悪の要塞」となっている。キリストにある霊的形成とは私の概念とイメージがキリストの持っているそれと完全に交換されていくことである。そのために神が用いられるのは「情報、すなわち端的に言えばイエス」であり私たちの「考える力」である。御言葉の示す神に理性的に思いを巡らすことはそれ即ち礼拝である。真の礼拝以外に人を変える力は無い。

感想:上記のまとめを書いて思ったのは、もし僕が本書を読まずにそのままこのまとめだけ読んだら絶対拒絶反応でるよね!ということ(笑)
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心の刷新を求めて Ch5

(超まとめ)キリストに似たものとなることは不可能ではない。それを不可能と思うのは様々なスキャンダルと「絶対的堕落」の教理の間違った用い方のせいである。霊的変容は待っていて与えられるものではない。Vision, Intention, Meansという「型」が私たちの具体的取り組みの理解の助けになる。

(感想)いわゆる「きよめ派」といわれるような教会に籍を置いていることもあり、「霊的変容」というところを「きよめ」とか「完全」とかに言い換えればとっても馴染みのある内容、私にとっては。「キリストのように変えられる、全ききよめは可能だ!」という言い方はウェスレーそのまんまのように思える。でも、具体的に「型」を提示してくださるウィラード先生はより取っ付きやすい気がする。きよめ派では「祈れ、祈れ、とにかく死ぬ気で祈れ」みたいな話も結構聞いたので。祈りも大事なんだけれども、abuseしちゃイカンと思う。

VIMについて。Visionは歩みの中でどんどん変わっていくんじゃないかと思う。きっと歩みだしの時点では不完全なイメージしか持てない。(そしてこのVisonはイメージだから、どれだけ聖句や神学で理論武装されていてもそれだけでvisionを持ったことにはならないだろう。端的に言えばどんな絵を持っているか、どんな「心象」を抱いているかということじゃないか。)イエスの御国のヴィジョンそれ自体は変わることがないが、私たちの理解や印象は異なっているし、異なっていて良い。変更されていって良いし、変更されていかなければならない。

またVIMは個人の範囲に留まるものではないということも考えた。一人ひとりが自己責任で取り組めばいいというものではない。一人ひとりのVIMが組み合わされて、より高次のVIMの取り組みへと繋がっていくのだろう。

ちなみにVIMのコンセプトそれ自体はなんだか私が仕事で策定してる保育指導計画とよーく似てる気がして笑えてきた。そう思えばこのVIMの原則は社会のあっちこっちにありますね、アラビア語でなくても。

(以下メモ)
・キリストに似たものへと変えられることは不可能ではない。
・真の霊的変化は日常生活の隠れた分野に必要なのである。そこは神の助けなしには覗き見ることすら出来ないし、直視することすらままならぬ。私たちを石に変えてしまうメドゥーサ。
・霊的変容を不可能だと思わせる2つの要因。(1)指導者達のスキャンダル (2)人間は本質から堕落しきっていて価値がない、決して変わることが出来ないという「もっともらしい」見解
・上記(2)について。確かに私たちはどれほど前進しても悪の火種を消すことは出来ず、slip backの危険から逃れることも出来ない。しかしだからといって人間は真に変わることが出来ないというのは真理を嘘とすり替えるものであり、内面生活を変えたくない人々の言い訳と成り下がっている。(私たちが「完全に堕落している」という真理は私たちが自分の闇の深さを認めさせ、逆説的に変容への第一歩を踏み出させるものではないだろうか?)
・「私たちが真に変わることが出来る」と言うのは自分で自分を救済できる、自力救済可能性を意味するのではない。堕落とは私たちが真に変わることが出来ないという意味ではなく、私たちが真に変わろうとは思わない、思えない、またそのために努力が出来ないという意志、意欲の欠如である ← ここにこそ恵みが必要。
・(霊的)成長の型 VIM
  −Vision(今ここで神の国に生きる、参加する)
  −Intention(信じるということは従うと意図すること。決意して行動を起こした時に初めて「意図」があったと見なされる。)
  −Means(手段は具体的である。意図があれば手段は必ず見つかる。)

心の刷新を求めて4章 覚書

超まとめ:失われているということが「私は神である」という深い深い勘違いの状態であるとするなら、「私は神ではない、神は他にいる、私は全てを自分の思い通りにしなくてもよい」と認めていくことが「自己否定」。自分の感情や欲求に対して自由に「Yes, No」が言える状態、更にはそんなことなど気にならない状態。それは自分で選んでいくものではあるのだが「費用を正しく計算できる」なら喜んで自己否定を選ぶようなものである、それは痛みや我慢の自己目的化ではない。そして、与える人生、赦す人生へと変えられていく、その影響は社会にまで及ぶ。

感想:このチャプターを通して気が付いたのが未来形の表現。「私たちは喜んで犠牲を請け負おうと思える」「今はまだ本気で求めていないものを、喜んで欲するようになりたいと思うようになる」「自己否定がその人自身の気質や品性の一部へと変わっていく」「私は自己に死んでいるとためらうことなく言える時がいずれやってくる」などなど。それは自己に死ぬということが「プロセス」であるということだと思う。私の中の刷り込みは「クリスチャンなら自己に死んでいなければならない、そうでなければおかしいのだ」と叫んでいる。その結果、その圧力に耐えきれずに結局自己を偽って「献身したフリ」をしていたのだと思う。今日もこの章を読みながら、心の奥底から攻め立てる声が聞こえてくる。「お前はまだまだ、全然不十分だ。自分に死んでるにしては趣味に金使いすぎじゃないのか? 職探しだって結局自分が可愛くて自己保身のために探してるだけじゃないのか?」 今は体調がいいから「あぁー、またあいつが叫んどるなぁー」っぐらいに軽く流せるのだけれども、体調が悪かったり負荷がかかったりすると自分を攻め立てる声に抗えなくなって軽くうつ状態に陥る。(「軽く」で済むあたり、そして自分の内面で起こっていることをそれなりに把握してるあたりが回復だと思う。)冒頭にバッチリ指摘してあったように、私は「自己否定=自己排斥」というコースを地で行ってた人間です。とてもよいサンプルだと思う(笑)

結局のところ、自分を責め立てるその声の元凶は「お前は自分のことは自分でなんとかしなきゃいけないのだ」という強迫観念であり、自分で自分の存在の責任を取ろうとする自罰性であり、「私は神である、もしくは神でなければならない」という勘違いなのだ。私の自己否定はまずこの内なる「責め立てる声」に従わないということから始まる気がする。

ウェスレーの著作なんか読んだり、この章で引用されているフランシスコの話なんか読むと、「むーりー」と妖怪ムリカベが出てくる。
https://youtu.be/yayOb1TbHQA
でも、この章のたくさんの未来形の文章は逆に今この時点では「むーりー」と反応する自分自身の率直な思いを肯定するのを助けてくれる気がする。「 今はまだ本気で求めていないものを、喜んで欲するようになりたいと思うようになる 」「非現実的に見える言えるの訓戒がしだいに健全で正しいと感じるようになる」。「なる」ということはスタート段階ではそうではなかったということ。今は正直に「むーりー」と思うけれども、だからといってここに書かれていることを現実不可能だと決めつけて読まなかったことにする気にはならない。正直俺にはムリだと思うけど、でもそういうことを確信を持って書いた人がいるということはしっかりと心に留めておきたい。ウェスレーが言うような状態、またフランシスコさんみたいな状態まで行くのだとしてもすっごい時間がかかるのだと思う、取り扱われるべき部分は私の見えているところだけでも山積みだから。でも、少なくともスタートラインにはたった、そんな気がする。

なんだかまた半分っぐらい本文とは関係ないこと書いた気もするが、それにしてもえぐられるなぁ…、別に悪いことではないけど。でも、ムリって思ったことをむーりーって書ける、こういう高い基準を示されて「そのようになっていく」ではなくて「そのようでなければならない」と捉えて自己を打ち叩かなくてもいいと思える、語られていることと自分自身との間に乖離があってもよいと思える、それだけでも私にとっては「言葉に尽くすことの出来ない、栄に満ちた喜び」。大げさかもしれないけど、それだけ自分にも人にもそしてある意味教会にも束縛されていたってことだと思う。出エジプトの記事を思い出す、ずっと奴隷であった民に「自由」ということを教えるのに神はどれほど苦労したのだろうか。どれだけ言葉で説明したって、自由を知らない民にはまずピンとこなかっただろう。私も自由を知らない民だ。自由にされても、、その意味を知り自分の権利と意志を行使できるようになるには長い長い時間がかかるのだと思う。でも、今感じているよりもさらに大きな自由があるのかもしれない、と思うとそれだけでも「もう少しこのjourney続けてみようか」というmotivationになる。「自分の命を投げ出すためには『自分の力、富、権力』以上に素晴らしい物、得になるものを経験しなければなりません。そこに現実味がなくてはなりません。」p118

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(以下はメモ)

・カルヴァンは「自己否定」という言葉で信仰生活を要約した。→Not 自己排斥。またそれは行為ではなくて「自分に死んでいる」という状態「Dead to self」
・自己否定は自らの努力で到達する状態ではない。「自分の安全を確保し、その発展を願い、自分を満足させる」ということを考えなくなっていく、次第に。非現実的に聞こえていたイエスの訓戒が次第に正しいと感じるようになる。
・「費用を計算する」=冷静に考える。弟子となることの費用対効果、また弟子とならないことの費用対効果を考える。→自分に死ぬことの「良さ」がわかってくると弟子となる犠牲を喜んで払おうと考えるようになる。
・「自己否定」が意味するところは、より価値のない方を捨てることであり、よりすぐれた永遠の自分、すなわち神があなたを創造された時に意図された自分になるために、現在の自己に死ぬことなのです。p115
・痛み、我慢が自己目的化するのではない、あくまで喜びがあるのだ。
・与えることと赦すことは神によって再構築された人生の中核。与えることは生命の表現。→その力はイエスが備えるもの。自分の命を投げ出すためには「自分の力、富、権力」以上のものを経験しなければ不可能。神からの支えがなければ偽善、自己欺瞞、自己神格化へと堕ちていく。
・自己に死んでいる人は自己の感情や欲求から自由であり、神と隣人への愛に支配されている。(感情や欲求が無くなるのではない、しかし「私は感じた、だからすぐに行動せねば」という不自由な、束縛された状態ではない、あくまで『自由』なのだ)
・自己否定という道を歩むことにより、根本善が堕落した考え、体、魂、そして社会の根本悪を置き換えていく。