超まとめ:失われているということが「私は神である」という深い深い勘違いの状態であるとするなら、「私は神ではない、神は他にいる、私は全てを自分の思い通りにしなくてもよい」と認めていくことが「自己否定」。自分の感情や欲求に対して自由に「Yes, No」が言える状態、更にはそんなことなど気にならない状態。それは自分で選んでいくものではあるのだが「費用を正しく計算できる」なら喜んで自己否定を選ぶようなものである、それは痛みや我慢の自己目的化ではない。そして、与える人生、赦す人生へと変えられていく、その影響は社会にまで及ぶ。
感想:このチャプターを通して気が付いたのが未来形の表現。「私たちは喜んで犠牲を請け負おうと思える」「今はまだ本気で求めていないものを、喜んで欲するようになりたいと思うようになる」「自己否定がその人自身の気質や品性の一部へと変わっていく」「私は自己に死んでいるとためらうことなく言える時がいずれやってくる」などなど。それは自己に死ぬということが「プロセス」であるということだと思う。私の中の刷り込みは「クリスチャンなら自己に死んでいなければならない、そうでなければおかしいのだ」と叫んでいる。その結果、その圧力に耐えきれずに結局自己を偽って「献身したフリ」をしていたのだと思う。今日もこの章を読みながら、心の奥底から攻め立てる声が聞こえてくる。「お前はまだまだ、全然不十分だ。自分に死んでるにしては趣味に金使いすぎじゃないのか? 職探しだって結局自分が可愛くて自己保身のために探してるだけじゃないのか?」 今は体調がいいから「あぁー、またあいつが叫んどるなぁー」っぐらいに軽く流せるのだけれども、体調が悪かったり負荷がかかったりすると自分を攻め立てる声に抗えなくなって軽くうつ状態に陥る。(「軽く」で済むあたり、そして自分の内面で起こっていることをそれなりに把握してるあたりが回復だと思う。)冒頭にバッチリ指摘してあったように、私は「自己否定=自己排斥」というコースを地で行ってた人間です。とてもよいサンプルだと思う(笑)
結局のところ、自分を責め立てるその声の元凶は「お前は自分のことは自分でなんとかしなきゃいけないのだ」という強迫観念であり、自分で自分の存在の責任を取ろうとする自罰性であり、「私は神である、もしくは神でなければならない」という勘違いなのだ。私の自己否定はまずこの内なる「責め立てる声」に従わないということから始まる気がする。
ウェスレーの著作なんか読んだり、この章で引用されているフランシスコの話なんか読むと、「むーりー」と妖怪ムリカベが出てくる。
https://youtu.be/yayOb1TbHQA
でも、この章のたくさんの未来形の文章は逆に今この時点では「むーりー」と反応する自分自身の率直な思いを肯定するのを助けてくれる気がする。「 今はまだ本気で求めていないものを、喜んで欲するようになりたいと思うようになる 」「非現実的に見える言えるの訓戒がしだいに健全で正しいと感じるようになる」。「なる」ということはスタート段階ではそうではなかったということ。今は正直に「むーりー」と思うけれども、だからといってここに書かれていることを現実不可能だと決めつけて読まなかったことにする気にはならない。正直俺にはムリだと思うけど、でもそういうことを確信を持って書いた人がいるということはしっかりと心に留めておきたい。ウェスレーが言うような状態、またフランシスコさんみたいな状態まで行くのだとしてもすっごい時間がかかるのだと思う、取り扱われるべき部分は私の見えているところだけでも山積みだから。でも、少なくともスタートラインにはたった、そんな気がする。
なんだかまた半分っぐらい本文とは関係ないこと書いた気もするが、それにしてもえぐられるなぁ…、別に悪いことではないけど。でも、ムリって思ったことをむーりーって書ける、こういう高い基準を示されて「そのようになっていく」ではなくて「そのようでなければならない」と捉えて自己を打ち叩かなくてもいいと思える、語られていることと自分自身との間に乖離があってもよいと思える、それだけでも私にとっては「言葉に尽くすことの出来ない、栄に満ちた喜び」。大げさかもしれないけど、それだけ自分にも人にもそしてある意味教会にも束縛されていたってことだと思う。出エジプトの記事を思い出す、ずっと奴隷であった民に「自由」ということを教えるのに神はどれほど苦労したのだろうか。どれだけ言葉で説明したって、自由を知らない民にはまずピンとこなかっただろう。私も自由を知らない民だ。自由にされても、、その意味を知り自分の権利と意志を行使できるようになるには長い長い時間がかかるのだと思う。でも、今感じているよりもさらに大きな自由があるのかもしれない、と思うとそれだけでも「もう少しこのjourney続けてみようか」というmotivationになる。「自分の命を投げ出すためには『自分の力、富、権力』以上に素晴らしい物、得になるものを経験しなければなりません。そこに現実味がなくてはなりません。」p118
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(以下はメモ)
・カルヴァンは「自己否定」という言葉で信仰生活を要約した。→Not 自己排斥。またそれは行為ではなくて「自分に死んでいる」という状態「Dead to self」
・自己否定は自らの努力で到達する状態ではない。「自分の安全を確保し、その発展を願い、自分を満足させる」ということを考えなくなっていく、次第に。非現実的に聞こえていたイエスの訓戒が次第に正しいと感じるようになる。
・「費用を計算する」=冷静に考える。弟子となることの費用対効果、また弟子とならないことの費用対効果を考える。→自分に死ぬことの「良さ」がわかってくると弟子となる犠牲を喜んで払おうと考えるようになる。
・「自己否定」が意味するところは、より価値のない方を捨てることであり、よりすぐれた永遠の自分、すなわち神があなたを創造された時に意図された自分になるために、現在の自己に死ぬことなのです。p115
・痛み、我慢が自己目的化するのではない、あくまで喜びがあるのだ。
・与えることと赦すことは神によって再構築された人生の中核。与えることは生命の表現。→その力はイエスが備えるもの。自分の命を投げ出すためには「自分の力、富、権力」以上のものを経験しなければ不可能。神からの支えがなければ偽善、自己欺瞞、自己神格化へと堕ちていく。
・自己に死んでいる人は自己の感情や欲求から自由であり、神と隣人への愛に支配されている。(感情や欲求が無くなるのではない、しかし「私は感じた、だからすぐに行動せねば」という不自由な、束縛された状態ではない、あくまで『自由』なのだ)
・自己否定という道を歩むことにより、根本善が堕落した考え、体、魂、そして社会の根本悪を置き換えていく。