矢内原忠雄のイエス伝

僕がイエス伝巡りをしていることを知った友人が貸してくれました。



第一印象としては、ちょっと冗長だけれどもしかし胸を打つ信仰の言葉がたくさん出てきたなぁと感じた。借り物なので傍線を引かなかったけれども、矢内原節は嫌いじゃ無いなぁ。

イエス伝としては(私にとっては)かなり保守的で、良い意味で安心して読めるものだと思う。矢内原さんは学者ではあるけれども神学者でも聖書学者でもなく、あくまで「平信徒」の視点で書いておられるからだろう。奇をてらうようなところは泣く、だからといって偏狭さも感じない。基本的に聖書の記述に信を置きズドン、ズドンと直球を投げてくる。我々日本人クリスチャンの先輩にこういう方がいた、こういうものを書いたということは励ましだと思う。

そして、ここまでイエス伝を色々読んできて、総体として迫ってくるものがある。一つは聖書の命、ということ。様々な人が様々な研究や哲学・神学を駆使しながら聖書からイエスを捉えようとしている。聖書の記述をどの程度歴史的事実として受け止めるかにはかなり人により幅があることは確か。四福音書やその他の文献資料、様式批評(?)などを通して「聖書のこの部分は歴史的事実、そっちの部分は著者の追記」などと事実を追っていくやり方もあるし、あっていいと思う。ただ、私はなんとなくそういうやり方って人間の体をメスで開いてみて「はい、心臓が動いてるから生きているんですね、脳が働いてるから生きているんですね」と示すようなやり方だなぁとおもう。「どのように人間の体が機能しているか」は示せるけれども「いのち」それ自体に関しては説明できない。同じようにどれほど聖書を切り刻んでも信仰は説明できないのだなぁと感じるようになった。これは私のイエス伝巡りの中で結構大きな成果だと感じる。聖書の読み方の許容範囲が広がったような感じがする。そして改めて聖書の不思議さとイエスという人の存在の不思議さを感じる。

いくつか矢内原さんのイエス伝から抜書。

イエスは御自身の罪のために死なれたのでは決してない。我我の罪のために死なれたのです。これはイエスの死によって、我々が罪の咎めなしとせられんためである。そう信ずる以外には救いの道がないほど、我々の罪は深いのです。イエスの十字架によって、始めて我らは「罪」の如何に恐ろしいものであるかを知りました。p354 (強調はブログ主)

(解説より)信仰告白の文献は、出来事の内面的意義の記述である。内面的意義の記述であるがゆえに、その事実は歴史的事実または客観的事実と必ずしも一致しない。……この点が矢内原の信仰指導と関係してくる。……矢内原は、聖書には、今日の常識と相容れないことがたくさん書いてあるからひっかかるところが多いが、ひっかかるところは、そこは、そっとしておき、聖書をどんどん読んで、心に透るところをしっかり刻みつけて行け、素読百回であると教えた。それは矢内原が信仰に入った体験からきているように思う。矢内原は、年若いころから、人生の苦難をなめてきた。その一つ一つの峠を越えるにあたって聖書は次第に奥義の扉を彼の前に開き、かつてひっかかった聖書の箇所は、次第に彼の心を苦しめなくなった。……聖書は信仰の書として読むべきであるとは彼の教えてやまないところであった。……聖書を信仰告白文献として読むこと、解釈することより、信仰告白が内面的事実をあたかも歴史的事実または客観的事実であるかのごとく記述することをそのままにしておき、それ自体が持つ力を彼の受けた信仰経験を持って一層強く働かせることに力を注いだ。p375-6

大正二年十月父を失った(矢内原は)内村鑑三を訪問してキリストを知らずして死んだものの来世の運命について質問した。内村は、意外にも「僕にも解らんよ。……併しこのために君自身の信仰を止めてはいけない。かかる問題は長い信仰生涯を続けていくあいだに自然にわかっていくものだ」と答えた。この答えは直接には彼を失望させたが、信仰のことは長くかかって学ばねばならぬことを深く教えた。彼の長くかかって理解する態度の基本はここから出発したかのようである。p382

クロッサン教授のイエス像

久しぶりにイエス伝シリーズ。また一冊読めたので忘れる前に気になったことを書き留めておこう。

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「復活はなかった」という主張とか、やたらと「Q文書やトマス福音書」とかが登場したりするのは正直に言えばちょっと生理的に拒絶反応がでる。(なんだかんだ言っても私自身が随分保守的なのだなぁということを実感)でもだからといって一笑に付すような本ではなかった、全く。

なんというのか、不思議な「信仰の深さ」を感じた、うまく説明できないのだけれども。復活はなかったとか福音書は史実ではないとか言う「研究結果」と信仰は矛盾するように思うのだけれども、彼の中ではむしろ理性的な探求結果によって信仰が深められている、そんな印象を受けた。どういう風に回路がつながればそういうことになるのか、ということは私にはよくわからないが。彼は決して信仰を「バカにしない」し、むしろ彼自身が信仰者としてイエスと(彼なりに方法で)向き合っていることがよく伝わってきた。

また、この本には彼に寄せられた賛否両論の手紙がたくさん載せられている。そのおかげで「彼の書くことに反対する自由もあるのだ」と思いながら読むことができた。彼の解釈や考えを押し付けられる、という感覚を全く持たずに読むことができた。ところによってはほんとに的確な指摘に手を打ちたくなる部分もあった(著者の思っている文脈理解ではない方法で、だと思うが)。

イエスは神の王国を論じるだけではなく演じたのです。つまり社会の権威と帝国の権力に喧嘩を売る文脈で人をいやしたのです。p99

喩え話は解釈を押し付けず、聞き手に任せます。自分で考えろと挑発します。神から押し付けられるよりも任される、管理されるよりも挑発される、そんな神の王国を教えるには一番ふさわしい話芸です。p72

私たちは週に一度の礼拝で世界から逃げているのでしょうか、それとも世界にイエスが乗り込む岸辺にいるのでしょうか。p182

「主の軛を負うことが出来るなら完璧であろうが、それができないなら、お前にできることをせよ。」「お前にできることをせよ」。これが大事だと思うのです。キリスト教徒であるとは、イエスの過激な言動と私たちの大半が求める平凡な生活との間の緊張を生きることです。p120

あと、史実と象徴の例えがすごくわかり易かった。あるところにリンカーンが斧を振り上げて奴隷の足を縛る鎖を断ち切ろうとする銅像があったとする。さて、この銅像は真実かそれとも嘘か。そんな場面は史実にはなかった、でもその銅像に込められている象徴は真実と言っていいのではないか? この喩えはすごくよくわかった。

ひょんなことからイエス伝を読み続けているのだが、面白いのはイエスについて読んでいるはずなのにいつの間にか著者の姿に惹かれているということ。イエスについて書くということがまるで鏡にように著者自身を映し出しているような、そんな気がする。それは単なる内容ということではない。今回のクロッサン教授の結論にはちょっとすんなりと同意はできないけれども、しかし彼の姿勢には大いに学ぶところがあると思わさせられたし、「保守的基督者」として自戒すべき点もたくさん示してもらったように思う。

これほどまでに多様に解釈されてもなお人を惹きつけるイエスというのは率直に不思議だと思う。前に書いたのだが、きっとこれが受肉ということの一つの側面なのだろう。つまり、人間に、それも多様な人間に解釈される対象となること、単に神学的存在のみとしてではなく歴史的探求の存在の対象となることをゆるされた、そのこと自体が受肉ということなのだろう。そう受け取るなら、イエスについて歴史的に探求するということは受肉の真理を真剣に受け止める行為の一つになりうるのだろう。不思議なことだ。

遠藤周作の「イエス伝」

とうとうイエス伝巡りも4冊目。若干食あたり気味なので少しペースを落としていますが…。

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遠藤周作の「イエスの生涯」は実は私がこの手の本で初めて読んだ本。実家に置いてあったのを中学生ぐらいの時に読んだのかな? あんまり内容は覚えていなかったがそれでも「なるほど、人間イエスっていう視点があるのかぁ」とそれなりのインパクトを受けたのを覚えている。それまでイエスはキリストで神の子、そんなのあたりまえで疑うことすら思いつかない、という世界にいたので。

実はボウカム先生が「イエス入門」の中で遠藤周作のイエス伝から一部を引用している、それも “遠藤周作の「イエス伝」”の続きを読む

シュバイツァー博士のイエス伝

思わぬところから始まった「イエス伝読書」はルナン、ボウカムときてこれで三冊目。ノーベル平和賞を受賞したシュバイツァー博士によるイエス伝。彼はただアフリカで人道的働きをした医者だと思っていたけれども、数年前に史的イエス研究史のなかで避けて通れない重要な神学者の一人だと知った。というかマルチな方だったみたいで、哲学の分野でも功績があるし、バッハの研究家としてまたオルガン奏者としても一流であったという。
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ボウカム教授の「イエス入門」

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ボウカム先生の「イエス入門」、読みました。

内容としてはルナンさんのイエス伝よりもはるかに私自身の馴染んできたイエス観に近いものであり、引用文献もほぼ新約聖書からであり、ぱっと見は「私の知っているイエス様」に見える。

でも、私はどうして「私の知っているイエス様」を知っているといえるのか?
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ルナンのイエス伝

N.Tライトの「クリスチャンとは」のイエスの記述(p143-)がイエスを人間として描こうとしているような感じを受けたところから気になって、あと大昔に読んだ遠藤周作の「イエスの生涯」を思い出して、エルネスト・ルナンの「イエスの生涯」を読んでみた。150年前のフランスの本。(岩波文庫で「イエス伝」というタイトルで訳があるが、私の読んだのは人文書院の新訳。)自分とは違うスタンスに立つ本は面白いし、逆に考えることが多い。以下いくつかメモ。

率直な感想として、ルナンさんはイエスの中に自分の理想を投影してるんじゃないか、という感じを終始受けた。なのでイエス伝というよりはイエスを通した宗教批判、もしくは現代批判(といっても150年前の「現代」)として読むのが適当なのかなぁと思った。例えば、ルナンさんはガリラヤ地方の自然を両手をあげて賞賛している感じがする。この地の自然がイエスの精神を育んだのだ、みたいなことを言っている。こういうのはなんだか都会育ちの現代人が「やっぱ田舎は良いよなぁ…」って言っている感じがする。あるいはイエスが無教養であったというところでも「知識や教養があればいいというのってどうなのよ!」っていう批判に聞こえる。福音書を信頼できぬものとしてその記述を取捨選択することで、自らの理想やイデオロギーを読み込む余白が生じたのではなかろうか? 神の子イエスを否定して人間イエスだけを取り出し、しかしそのイエスをあくまで最高道徳の祖として描き出す様子は正直「キモい」。人間がなんとかイエスを立てて守ろうとする気持ち悪さ。書かれてから150年たった今日には信仰者にも信仰しない者にとっても「キモく」響くんじゃないかなぁ?

もちろん、「イエスに自分の理想を投影しているのではないか?」という問はルナンさんを通ってそのまま私に突きつけられる。それは奇跡を文字通りに受け取るのか、とかイエスの復活をどう考えるか、ということとはまた別の深い問である。以前書いた「裏切りのイエス」という記事はまさにその問を浮き彫りにしたものだと思う。ある意味恐ろしいことだが、私たちの描くイエス像は全て虚像の域を出ないのだろう。ルナンさんはイエスの実像に迫ろうとして逆にそのことを明確に示してくれていると思う。私の中の「真理としてのキリスト教」は信仰を守ろうとルナンさんのスタンスを否定しにかかるのだが、では自分自身の持っているイエス像が真理であるとどうして断言できようか! 私のイエス観、もしくは神観は100%真実ではない。人間のイエス観、神観は決して100%真理にはならないだろう。学問的に、もしくは信仰的に正しいイエス像を提示することが出来たとしても、それを受け取って心に抱くというプロセスの中で必ずゆがんでしまうだろう。

でも、100%真実なイエス観が持てないこととそのイエスを信じることはあんまり関係ない気がする。むしろ、100%の真理を私は得ることが出来ないという点にこそ信仰の力は十二分に発揮されるのだと思う。

これを書きながら、私にも曲がりなりにも「イエスとの歩み」があるのだなぁと思う。感慨深くもある。どういうわけか、今も彼とともに私は歩んでいる。5年前の私が「イエスとともに歩む」と言ったのとは全く違う歩みではある、しかし不思議と確かな歩みが今もある。以前の信仰とは違う信仰を持っている、今の私の態度は以前の私なら「不信仰」と断罪したものかもしれない、でもそれでも私の中で静かな力となっている。今私の持っている信仰もイエス観も不完全甚だしい、自分でもそう思うしこれを読んでくださる方々にもそう映るだろう。でも、変わっていくと思う、ここまで変わってきたように。

こういう思索を引き出してくれたルナンさんには感謝。ちなみにルナンのイエス伝を読んで、積読になっていたボウカム博士の「イエス入門」が俄然魅力的に見えてきたので読んでみることにします。そういう点でもルナンさんありがとう。

最後に、ルナンさんの福音書記者への非難をルナンさん自身へ、そして私自身への警句として引用しておきたい。

「もともとイエスの姿を伝えようとした福音書の記者たち自身が、語られるイエスより遥かに劣っていたので、書き留められたイエスの姿は歪められ、イエスの高みまで達していない。書き手は一行書くごとに、オリジナルの崇高な美しさを損なっている。イエスの思想を半分しか理解できないで、残る半分を自分の思想で代用しているのだ。だからイエスの性格は、伝記作者によって美化されるどころか、萎縮させられた。福音書を読むものは、弟子たちのくだらなさに目がゆくあまり、イエスの真の姿を見失わないように気をつけなければならない。弟子たちは、自分の考える通りのイエス像を描いてイエスを偉大にしたと信じ込んでいたが、その実は矮小化してしまった。」p302