心の刷新を求めて Ch13 「地域教会での霊的形成」

超まとめ:地域教会はそこに集う人たちの「霊的形成」に全力で取り組むべきである。いろいろな段階の人がいるが、一人ひとりの内側でそれぞれの段階で霊的形成が進められていることが大事。それぞれの教会の形式や伝統、歴史や教理といった「土の器」と新約聖書の語る宝すなわち「原則と根本原理」を取り違えてはならない。すなわちイエスの「弟子」を作るのだ。弟子は当然のごとくイエスの語ったことを実践していく。

感想:「教会は多くの人々を死に向けて備えているが、生きるためには明らかに備えられていない人たちを生み出している」という

なかなかシビアな皮肉に、でもとても共感する。自分自身のことを振り返ってもそうだし、特に教会で育ったような人たちの話にじっくり耳を傾けてもそうなのだが、この皮肉を地で行くようなところが日本の教会にもある気がする。そして、そこで育った子どもたちはどう生きていったらいいかわからないという状況に置かれている。彼らが、そしてわたしが求めているのは「死ぬための福音」ではなくて「今この世界を生きる福音」であると思う。「目の前にいる人間にキリストの真実を見いだせないで、教会に囲まれながらも天国にいけない人がいかに多いことか。p432」そして、そのような人たちの叫びをいかに聞いていないことか。そういう正直な叫びに耳を傾けて言葉にしてみたいと改めてこれを読んで思う。

「その時点での自分の理解に応じて、イエスに自分の存在すべてをゆだねる p438」わたしが昔の自分の信仰や考え方を振り返る時に、ほんとになんて愚かで無知だったんだろうと思うことが多い。あんなの信仰でもなんでもない、ただの自己欺瞞で自己催眠だと切って捨てたくなる。でも、わたしは愚かななりに若いなりに、あの時点での理解に応じて自分の存在すべてをゆだねていたのだ、と思う。あれはあれで不完全ながら「信仰」だったのだ、そして、あれが種となって今の信仰が芽生えているのだと思えるようになってきた。そして、今の信仰だって限界の中での信仰で完璧でも完全でもない。しかし、限界があるから完璧だからと言って棄却されるものではないのだ。過去のわたしも今のわたしも同じ「霊的形成」のプロセスの中に置いていただいているのだ。

そして、この章だけに限らず本書全体を通して語られてきたことだと思うのだけど、霊的形成のプロセスがいかに「自然な」ことであるかが書かれていて、正直安心する。イエスの弟子となるとはイエスの弟子として行動すると言うよりも、イエスの弟子であるというアイデンティティが日常の当たり前の暮らしの中でも生きられるぐらい自然で当たり前なこととなるということだと。「キリストを着る」ということはきぐるみを着るんじゃなくて、下着を付けるとかメガネをかけるとかいう感覚のほうがあってるのかもしれない。つまり、それを着ていることすら忘れているような状態。パフォーマンスではなく、それがごく自然に行われる。キリストの弟子であることは人間として不自然で窮屈でこの世の片隅で生きていくことではない、むしろそれは人間として自然であり世界がそれを待っている。なんだかこのあたりのことは13章の感想と言うよりも一冊まるごとの感想。

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