書く事と「私という他者」

先週アップした記事に普段の100倍ぐらいのアクセスがあったのでびっくりしていたら、どうやらそれをご自身のブログの中で紹介してくださった方がいらっしゃったみたい。ありがとうございます。

http://rhythmsofgrace.blog.jp/archives/14326859.html
あと、この前ははじめてお話する方から「ブログ読んでますよ」と言われてちょっとびっくりしたこともあった。確かに一応メールの末尾には名前や電話番号と一緒にブログのアドレスも自動的に署名されるようになってるんだけど、そこからずっと読んでくださったみたい。ありがとうございます。

もちろん人に読んでほしくて書いてるところも大きいので、読んでもらえば単純に嬉しいです。でも同時に、「他者が読んでもある程度意味の通じる文章」として今の自分のことを表現して自分のために残しておきたい、という思いも決して小さくない。5年後10年後の私という「他者」のために書いておく。走り書きでは一週間も経つと自分で意味が取れなくなってしまうことも。その点ブログという形で、誰かに読んでもらえたら、と思いながら書くものは後で読み返した時にそれなりに意味を取ることができるし、その当時の自分を客観的に振り返ることができる。5年前に書いたものなんてほんとに他人が書いたものみたいに思うし、2年前のものだって書いたときの感覚は若干失いかけれてるなぁと思う。まさに他者として昔のものを読み返すことは振り返りの良い材料となるし、それは次のステップへの作戦を練る材料ともなる。誰かが読んでも読まなくても、少なくとも私という「他者」のために書き溜めておく。だから覚書。

そもそも、明日の私が今日と同じ私だと本当に言っていいのか? 体を構成する物質そのものはもう10年前のものではないのに、なぜこれが同じ私といえるのか? 今日の私にとって明日の私は他者かもしれない。他者と言ってしまうと少し言いすぎかもしれない、でもわずかかもしれないけれども絶対に差異が生じている。逆に言えば、今日の私が昨日の私と同じと言えることがとってもすごいことなのかもしれない。とっても当たり前で、かつとってもすごいことで、とっても深遠なことじゃないだろうか?

さぁ、今日の自分はもうこの辺で置いておいて、文章の中に脱ぎ捨てておこう。これで寝て起きたら、新しい私が新しい日を始めるのだから。