ボウカム教授の「イエス入門」

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ボウカム先生の「イエス入門」、読みました。

内容としてはルナンさんのイエス伝よりもはるかに私自身の馴染んできたイエス観に近いものであり、引用文献もほぼ新約聖書からであり、ぱっと見は「私の知っているイエス様」に見える。

でも、私はどうして「私の知っているイエス様」を知っているといえるのか?

そこに切り込むことが「史的イエス論」に飛び込んでいくことの目的であり、醍醐味。そう思って読んでみると、随所に古代ユダヤ教の背景知識や当時の社会・政治状況への言及があり、それが福音書の記述を補完するだけではなくむしろ福音書の信頼性を増している。

個人的にはね、「病人の癒やしや悪魔祓いをどう捉えるか?」とか「イエスの系図は果たしてどのぐらい信ぴょう性があるのか?」とか、ルナンさんがコテンパンにしている福音書の記述をどう取り扱うかが気になっていたが、この本の中ではさらっと流している。というよりも、「そんな枝葉末節にとらわれないでもっと大切なテーマに触れて欲しい」と著者は願っているみたいに感じた。きっと、巻末に挙げられている文献の中ではしっかりと議論があったりするのだろう。あくまで入門、しかし、入門だからこそ一番大切なエッセンスに触れてほしい、ということなのだろうなぁ。(というか、きっと奇跡とかそこら辺をどう考えるかって新約聖書とか史的イエスの問題というよりは、世界観の問題なのだろうなぁ…。)

読んでいて、ぐっと掴まれてそのまま読み続けることが出来なくて黙想させられた箇所を引いておきたい。この箇所に、学者としてというよりも一人の真実な基督者としての魂の震え、みたいなものを私は感じた。そして、信仰者として私の描いていたイエス観が揺るがされている…。まだ揺らいでいる…。イエスは私が信じていたよりもずっとずっと憐れみ深いお方なのだ…。

イエスは預言の書を彼なりに読み、自分のために備えられたと思う計画をただ演じ上げたのだ、と私たちは考えるべきでない。イエスは彼が目の当たりにした苦しみに心を動かされたのだ。……(中略)……イエスは、人々が彼から引き出した癒やしの力こそ神の憐れみの力だと理解した。彼はそれらの癒やしを神の王国のしるしと見た。それは明らかに、イエスが理解していた、なににもまして慈愛に満ち憐れみ深い神の働きだったからだ。イエスが神の王国をもたらしたというのは、彼が神の憐れみをもたらしたということだ。イエスが預言の中に見出していたのは、まさにこのような神の憐れみのほとばしりが、イスラエルの神がその王国を確立するときに起こるということだった。誰もが聖書をそのように読んだということではなく、イエスが聖書を読んだ時にその頁からそのことが飛び出してきたのだった。……(中略)……意義深いのは、イエスが病人を単なる癒やしの受け手としては扱わなかったことだ。イエスは、彼らが自分自身の癒やしに参与することを求めた。イエスは、彼らの体験を神との関係の一部にしたかったのだ。(p73-74)

もちろん、8章の受肉に関する文章も圧巻です、引用しようと思ったら一章まるごと引っ張らないといけなくなりそうなので止めます。

PS, 実は本書の訳者の一人であられる横田先生には以前お世話になったことがあります。先生のあたたかい眼差しと、しかし熱いハートはよく覚えています。懐かしく思います。

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