心の刷新を求めて Ch8

(超まとめ)意志は人間の霊そのものとも言えるものであり、人間の尊厳の源である(神さえもそれを無理に侵犯しようとなさらない)。私たちは自らの意志を神の意志に合わせていく時に、初めて本当の意味で自由となり、心に自らの意志を100%持つことができるのである。

(感想)
別にこの章だけに限らないのだが、神に自分を明け渡さなければ、自由になるどころか自らの奴隷となる、と何度も言われている。ちょうど並行して読んでいたカラマーゾフの兄弟の中でも同じことが出てきた。古くて新しい真理なのだなあと実感。最近興味があるのが「自己愛の問題」なのだけれども、心理学者や精神科医が言っている「自己愛の問題」がこの古くて新しい真理とどう関係するのかあるいはしないのか、すこし調べてみたい。

「まず神の優位を理性で認め、行為で同意する……人生と神への不平不満が渦巻いているだろう……それでも! これは大きな進歩です! たといそこに希望や熱意がほとんどないとしても、心や霊といった自己の中心が神の神たることを望んでいるのですから!」(p269-270 要約) 思わず感嘆符をつけてしまうほどにこの箇所には慰められ、また背中を押してもらった。以前の私のキリスト教の中核は「如何にして自分の感情を『私は神に従っているのだ、喜ばれているのだ』と感じさせるか」にかかっていたから、「この希望も熱意もない状態ははたしてこれで良いものか」という不安がいつもつきまとっている。でも、背中を押してもらいました、「大きな進歩」とほめていただいた気がしました。ありがたい事です。本書全体に言えることだと思うが、ダラス先生は「過程”process”」というものを本当に丁寧に、大切に取り扱って下さるように思う。私たちの現状と求めるべき理想を提示するだけではなくて、その間を細かく細かく追ってフォローして下さる。そして、霊的刷新のプロセスがあくまでも神のものであることを常に思い出させてくれる。「私たちの意志を蝕む二心、もつれ、邪悪な意図は、イエスに目を留め続けているならば、清め、取り除かれていきます。」(p280 強調はママ)ココに表されているのは私たちの内に働く神の霊の力強い推進力だと感じる。

ダラス先生が言われることの全部がvividな(鮮明な)イメージを持って理解できているわけではない。著者自身が「現時点ではこれがどんなものか想像できないかもしれないが」と言っているとおりである。しかし、神の御霊は私のイメージできないところへさえ道を備えていて下さる、そう思えてくる、この本を読んでいると。なので「絶対到達できない理想を押し付けられている」感じがあまりしない。(もしそうなら多分もうこの本放り投げているハズ。)神が備えていてくださるものは、

いまだ聴かずいまだ耳にいらずいまだ目に見しことなし(イザヤ64:4 文語訳)

(以下メモ)

・キリストに似た者の思考と感情の状態は、その人の他の側面と共に変えられていく。独立した存在ではない。
・意志は感情や思考に依存するのだが、vice versa! It’s interactive.
・選択(意志を行使)しようとするその瞬間に思考や感情を変えれない、しかし、意志は将来の選択に備えて思考や感情を整えておくことができる。
・思考や感情は意志によって習得され得るものである!
・私の意志を神の意志に合わせる。
(喜んで自分自身を捧げる、等と聞くと、すぐに、じゃあ今の私はダメだと感じる心がある。全てをなげうたなくては、直接献身しなければならないのか、とか思う。そうでなければ私は自分の意志で生きていることになるのではないか? じゃあ、献身したから、神に仕えるという名目上の立場が得られたからといって「お前は十分に神に使えていない」と責め立てる者から自由になれるのか?何か大きな大きな誤解があるのではないか? ①聖霊を認めること ②それが一瞬の変化ではなくてプロセスであることを認めること ③私の足ら無さや図々しさからではなくてイエスの眼差しからスタートすること)
・意志とは私たちが何かを根本的・独創的に始める力であり私たちの存在の中核、非物質的存在としての人間の中核、私たちの霊である。それは神から直接出たもので神の所有であり続けるように意図されているがそれでも私たちの霊である。
・(無理やり)極言すれば、人間の尊厳とは意志の尊厳である。
・現代は自らの意志を自ら貫徹せず自らに矛盾してしまう状態を「自由」と名付けている。e.g. ダイエット。それは自由とは全く正反対の束縛ではないか? そしてこの現代社会にとって束縛と見なされる一貫した意志を貫くことが自由ではないのか?
・一貫しないうつろいやすい気分の奴隷、自己矛盾の奴隷。「自らの奴隷」、それが現代的で自由な人間のポートレート。
・意志は決してどうして単純ではない、それは生来複雑なものである、そもそも複雑に造られており複雑で良い。それは人間の本質的な偉大さのの部分。しかし自分で正且つの朱仝兼を握ろうとすると意志はその複雑さを用い自分で自分をさえ騙す。そして自分自身を騙している事実さえ自分自身に隠してしまう。”Shadow mission”隠された使命。
・イエスの眼差しからスタートしよう。神は私たちの二心でもまるごと引き受けてくださるのだから。何も神には隠されていないのだ。
・自分の意志を神の石と完全に同一化していくプロセス。①降伏(これは苦々しい降伏であるかもしれない、声高らかに歌うようなものではないかもしれない、しかしそれでも素晴らしい一歩だ。)②その中で恵みと知恵が増して行くと、自己放棄へと進んでいく、完全に明け渡される。「神は私の望み通りにしてくれるだろうか」という不安と緊張の中でいきなくなる。③神の御心に対する満足④神の計画の前進に参与してく。 今この時に一歩を踏み出すように招かれている。現時点でその歩みが想像できいなくても良いのだ。
・意志を明け渡し始めると、自分自身の焦点が全く定まっていないことが見えてくる。「心の純粋さとは、一時を意図することだ」(キルケゴール)
・私たちを束縛するのは欲望(欲望の奴隷となること、欲望についての混乱、欲望それ自体)。習慣的に欲望に従っていると、欲望の力は強まっていく e.g.慣性の法則
・日常生活の中の目立たない「もつれ」こそが、キリストに従うことの高みや深みを阻害する原因。自己欺瞞に打ち勝つ、すなわちそれに気づき、対決し、捨てる。
・神の意志と自らの意志を一致させるということは、意志を失うことではなく(それはきよめではなく非人間化)完全に機能する意志を持つようになること。賜物としての自分自身を見出す。

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