イエスの眼差しからスタートする

私は自分自身を簡単に欺くことが出来る。私は自己欺瞞の塊だ。私の中の一体何が真実だというのだろう? そんなもの俺の中に存在するのか? この欺きの塊にどんな価値があるというのだ! でも、イエスの眼差しはどうだろうか? 自己欺瞞の私を汚らわしいと蔑むだろうか? 救う価値無しと見捨てて行くのだろうか? 良きサマリヤ人の喩えに語られているのは私たちが良きサマリヤびとでありなさいということ以上に、それを語るイエス御自身とその父のポートレートではないか。昔の私は自己欺瞞の自分の姿すら恐ろしくて認めることが出来なかった、もうそれはそれはひどく蔑まれるのだろう、と。しかし、
そうではないと思えるようになってきた。イエスの眼差しからスタートしよう、それはきっと正しいスタートの場所だから。

ただ神のみに信頼せよ、と言われる。ただ神のみに信頼するとは、神以外のことを考えてはならないということなのか? 神が必ず助けてくださるという100%(いや、もしくは200%)の確信をもっていなkればならないのか? もしくはすくなくともそんな核心があるかのように自分を偽って敬虔なクリスチャンを振る舞わなければならないのか? 否、むしろそんなこと到底出来ない私にさえ目を留めていてくださるという知識を持っていること。私が「クリスチャンらしいかどうか」に関わらず。自分の信仰や自分の一途さに対する信仰ではなく、文字通り神のみに、私の状態ではなく神のみに信頼すること。わたしがどう信じるかからスタートするのはやめよう。イエスの眼差しからスタートしよう、それがきっと正しいスタート地点だ。

キリストだけに目を留めよ、と言われる。しかし、そんなことは果たして私に可能なのか? 自己欺瞞人間なのだ、私は!「キリストだけに目を留めている」つもりになることだって出来る、そしてその実のところは自分で自分の一生懸命さや一途さやけなげさに酔っているだけ、ということすら可能なのだ。私の信仰などクソ喰らえ、私の一途さなど投げ飛ばしてしまいたい、私の一生懸命さよ、私はもうお前など見たくもない! イエスの眼差しからスタートしよう、私の虚しい小手先のキリスト教ですら引き受けてくださるのだから。

イエスの眼差しからスタートしよう…

コメントを残す